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三年前に引っ越して来た場所は駅から4キロほど離れている。
家には一台しか車がなかったので昼間主人が駅の駐車場まで車をもっていくと、私の足は自転車と歩きとだった。
4月に軽トラを買うまでの一ヶ月は市内循環バスを使って警察署にいったり、役場に行ったりしていた。バスは一日外回りと内回りであわせても8本くらいと少ない。借りていた家からバス停までは12分くらいあった。

免許の書き換えに必要な警察署は隣の隣の駅でバスに乗ればその駅から5分ほどあるいた場所にある。幼稚園のときにもそれまで歩くのは得意な子どもだったのと留守番のできないサイズの娘は常に同行した。春休みはそうして過ごした。

私たちは歩くのは得意だが、苦手なものがある。それは「匂い」だ。
新しいバスの匂いに参ってしまい、私は我慢できるが、娘はもう乗りたくないと言う。
そうすると帰る手段が電車と徒歩ということになる。電車は一時間に一本。駅からバスもあるが、接続はしていないことのほうが多かった。

電車は行ったばかりでそのあたりをフラフラして1時間後の電車に乗った。駅についてももちろんバスはなく、歩くことにした。近所の人が一時間くらい、と言っていた。
早足であるいたつもりだったけれど一時間と20分かかって家についた。

あるとき、用事があって駅を降りた。どんな用事だったかわすれたけれど、もしかしたら、人が恋しくて寄っただけだったのもかもしれないけれど、駅を降りてその駅から5分くらいあるいたところにある地域のお店に寄った。

そこの社長はここらへんの移住者の促進事業の理事で引っ越す前から知っていた顔だった。子ども会の案内を持って来てくれたお母さんがそこに勤めていてこのあたりで数少ない地元の人で知っている顔だった。

店に入るとお茶菓子とお茶をすすめてくれて、学校の体操着のお店に案内してもらうことになった。娘にはポカリスエットの青くて白い細長い缶ジュースをくれた。いままでそんなものを飲ませたことがなかったので、ちょっとどうしようか、と思ったけれど娘も見たことがなかったので飲まずにいたら、お土産にくれた。
しばらく、それは一年以上棚にしまってあって、いつもその時にしてもらったいろいろなことを思い出してはありがたい気持ちで眺めていたのだけれど、いつだか娘が高熱を出したときに、あっさりとした気持ちで彼女にそれを飲ませた。
そのあと車でお店まで送ってくれて、ここに越して来たから、世話をして欲しいとお店の人に紹介までしてくれ、そして歩いて帰ろうと思った家まで送ってもらった。

何から何までわからなかったけれどわからないことは色んな人が色んなことを流れ良く教えてくれた。だからそのあともきっと大きな顔をしてふんわりとここに当たり前のような気持ちで住んでいる。地の人からみたら、きっといつまで経っても、私の顔にどんなにシワができても、腰がまがっても永遠に私は「引っ越して来た人」なのだろうけれども、私の目にはひと月も経たないうちにもうすっかりこの土地が親しいものになっていた。

そんな三年前の春。

来年用の子ども会の名簿をセブンイレブンのプリンターで出力していたらそんな気持ちがわいて来て、ぬるくてホコリまみれの信号待ちの軽トラをゆさぶって倒しそうなこのあたりの春の名物とかいう春の東風がそんな心に積もっていたたくさんの気持ちを底から舞い上がらせた。

印刷したらそれで帰ろうと思ったけれど、軽トラの行き先はそのお店に変更になった。
お店に入るとそのお母さんがどうしたの?って顔をして見てくれたのだけれど、お礼を言いたいのに、もうお腹のなかから、喉のあたりから先にもう気持ちがあふれだして、声にならなかった。そんなにしていたら、またあのときみたいに「どうぞ」ってお茶をすすめてくれた。

お茶をすすって、ちょっとは落ち着いて、お礼と、来年の学校の係のことを聞いて、もっと少し落ち着いたので「またお世話になります」といって帰って来た。
帰り道も胸から喉のあたりにだんごみたいに気持ちが一杯になったままで強い風の中をはしった。

帰ると鶏小屋じゃ倒れてないでそこにあって、卵が朝より一つ増えて3つになっていたので2つもらった。

ほっとしたら、朝は玄米ご飯をたしか2膳食べたのにお腹がすいた。





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朝は自宅学習とおもってテキストと言われた本を読んでいた。
日差しの入る温かな二階のすのこ状の通路で窓の桟に背中をもたらせて本を読んだ。
すのこ状になった木は叩くとちょっとインドネシアの楽器のようなポコ、ポコという音を立てるものだらからその音が楽しくて叩きながら読んだ。
場所によって音程に差があるものだからなんだかそれだけでインドネシアのどこか島に来ているような気持ちになる。叩きながら読んだ。
本を一通り、なぜか後ろから読み出して前の方にもどっていった。せっかくこんなに暖かいのだからここに娘の布団を干そう、ふかふかにしよう、と敷いてその上で読んだ。そしたら案の定、眠くなって横になっていた。気がつかないうちに寝ていたが、寝ている間は起きていると思っていた。
寝ていたことに気がついたのは電話がなったからだ。

あわてて階段をおり、電話をとった。
だれだろう?名前も名乗るのをわすれて「もしもし」と言うとしばらく声がなかったけれど
それはなんと名乗って良いのか困っていたからだと名前を聞いてからすぐにわかった。
こっちに引っ越してくる前に建築屋さんが案内してくれた同じ設計さんで建てた家の人だった。
こちらは別荘ということになっているのだけれど、去年あたりから別荘で過ごす時間の方が増えて、ほとんどこっちにいる。それで畑をして、ふたりで仲良く暮らしている。年齢は自分の親と戦争をはさんで産まれた兄弟くらいだから10こちょっと若いと思う。親でもないし、兄弟でもない年齢。
引っ越してからもそれがきっかけでときどき遊びにふらり、と寄ったりする。
そしておいしいお茶と楽しい話しをたくさん、たくさんしていつも幸せな二人のあたたかい空気をもらってもどってくるのだ。

電話をわざわざしてくるということはほとんどない。これは様子が違う、とおもったら薪割りをしていて腰をひねってしまったという。以前遊びに行ったとき、ちょうど私はぎっくり腰で、治療院の帰り。その治療院で私が借りて来たという野口整体の本を思い出して電話してきた。その治療院を紹介してほしいと思って電話をかけてきたのだという。
でもそこは震災後、しばらく山田で開業していたけれど、いまは沖縄に引っ越してしまっているので直接見てもらうことはできない。という返事をして電話を切った。

受話器を置いたあと、ようやく起きて来た頭で私は考えた。でもやっぱり半分眠った頭で、私にできることを探してみた。私に課されたものはなんだったのだろう?直接施術することはできない。自分の腰に気をつけなさいというメッセージ?それとも?と考えながらも手は腰痛のときにもらった資料を入れたファイル、お灸や本、カワラケツメイのお茶、レメディーのキット、自家製の醤油、そのときの醤油のもろみ粕などのお土産ともなんともいえないものを寄せ集めてカバンにいれていた。
そして車の中にいた。

電話では「たいしたことはないのだけれど」と症状のことを言っていた。けれど私が家についたときは横になっていた。
私がここ3年の腰痛体験と腰痛対策で知ったこと、取り組んだこと、気がついたことなどを総動員 して話をして、体操などを見せて来た。ほとんどは野口整体を知っている奥さんがご存知で、相づちをうってくれるので話はさらに饒舌になる。というより、この家にくるといつも私はちょっといつもに増してトークのスピードが増し、それにあわせて声のトーンも高くなるのがわかる。
調子に乗ってしまう。体の対策、腰痛になる心の対策について一通り話をし、レメディーを三粒おいてきた。

それからちょっと、って思ってお茶をもらって大笑いしながら話をきいたり、それでもたくさん話をしたら12時の音楽がながれた。あっという間に昼になっていた。お互いの話の勢いはとどまらない。どこで退席しようと台所をみると奥さんがなにやら粉をこね、それを綿棒でのばしている。手打ちうどんを用意してくださり、それを三人でおいしくいただいた。
そのあとも笑いに笑い、話すに話し、聞くにだけ聞いてご飯のあとのお茶を飲んでいて、そろそろ帰ろうとおもい席をたった。

軽トラに乗ってびっくりした。
時計がもう3時半になってる。夕方だ。。

浦島太郎ってこんな感じだったのだろうって思う。
あっという間の一日だった。

そして今は夕方のチャイム。それでもまだ日が高い。
明日は新月。
たしか3年前の今くらいが卒園式だった。幼稚園の認可のない小さなNPO法人の保育機関に在籍していた。国からも県からも補助金が、私の入る前までは団体に一万円、それは個人にではなく、しかも年間の金額が県から出ていたけれどそれもなくなっていた。まるでなかったので、先生の給料は安いし、保育時間は短いし、保育料は高いし、手伝いも多かった。けれどとても意味のある大げさにいわなくても人生を変えた楽しい2年間だった。未就児クラス時代もいれると4年お世話になった。
その次の日、引っ越しをしてきた。洗面所がなかったのが不便で洗面所のある所に住みたくて引っ越してきた。
そのアパートには7年間住んだ。狭かったけれど景色だけは南に開けていて、広い視界のある本当に良いアパートだった。敷地は傾斜地にあって、昭和40年代のぐさぐさ崩れる大谷石の2メートルくらい護岸してある上に立っていたから大きな地震があったら、このまま下に滑るだろうと思っていたけれど、2年前の震災のあともそこにあるそうだから、案外丈夫なのかもしれない。
荷物を片付ける時は近所の人とか、娘の赤ちゃん時代からの友人、建てることにはいたらなかった住宅屋さんまで手伝いに来てくれて忙しかったけれどとても楽しかった。
車で移動した主人とは別に娘と二人快速に乗った。窓から外の景色を見たのを覚えている。べつに寂しいとか不安とかちっともなくて、ただ、どこかに出かけるような心持ちだった。
ぴったり2時間で新しい先の駅についた。
ついたら迎えに来てくれるはずの主人は電話会社の人を待つために駅までこれないというので、引っ越し先で隣の家の人に電話をして駅まで迎えにきてもらった。
恐縮しながらも、なんだか古くからの知り合いのような気持ちで当たり前のように電話して、迎えにきてもらった。スーパーなど説明してもらいながら家に送ってもらった。
それから引っ越し屋さんの2トントラックと3トントラック二台のトラックがついて荷物を出した。
3トントラックの方は配車の都合で三トンだっただけで、ガラガラだった。

家が建つまでの仮住まいはとても広く、部屋も多かった。その家もやはり古くからの知り合いかのように一度だけ引っ越し前に会った人に仮住まいを探していた11月に道であって、空き家を知っているといって案内してもらったのだった。
その前には同じ学校にあがる同い年の子どもがいて、そのお母さんが管理をしている人に電話をすぐしてくれ、鍵をもらってそのまま中を見せてもらった。
そしてその家に半年仮住まいをすることになった。
お兄ちゃんがいるので、小学校のことがなにからなにまでその仮住まいのお隣になったお母さんにお世話になった。たとえば体操着の名札など着ける場所がわからず、そんな小さいことからなんでも相談に行った。
とても心強かった。同じ一年生にあがる保育園の卒園式のあとの会食にさそってもらい、一年生になるみんなやお母さんとはじめて会えた。用意されたお店は海のそばで、青い空はとてもきれいで、澄んでいて明るい人ばかりで、なんだかこの先がずっと明るい気持ちだった。不安におもったことなんて一度もなかった。

そんな風にここに当たり前のように越して来た。
それから一年。ちょうど明日でここに越して来て一年という日に地震が起きた。
保育園に納品するための積み木を磨く仕事をもらっていて、ひたすら手を動かしていた。
 
そうか、今日だ。二年前の今日だった。
やけに空がピンと青すぎるとおもって娘を学校の途中まで送った帰りに家の写真を撮ったんだ。

それから午後に地震が来たんだ。
うちで倒れたものはまな板だけだった。
でも他の家とか海の方はとっても揺れたって言ってた。
新しい家は丈夫なんだな、って心強かった。
たぶん、この家にいたら大丈夫だって心強かった。
すぐに学校に迎えにいった。自転車で行った。都会に住んでいたので大きな地震が来たら車は使っては行けないと思い込んでいた。校庭に並んだ子どもを引き取った。途中で記念にと写真をとった。防災無線は必死に大きな声でなにかを伝えようとしていた。
そんな日だった。
それからたくさんの情報が入れば入るほど不安ばかりだった。
その大丈夫だって思った感覚がどうやら違うかもしれないと不安だった。

でも案外堂々としていた風だった。
受け入れるってのも運命だし、って思った。それはものを知らなかったからかもしれないし、いまもわかってないからかもしれない。
よく知っている人から西ににげろ、とメールももらった。
そのメールを読んでもピンとこなかった。
それから一年はじんましんやひどいあせもに悩まされた。胸腺をやられてしまっていたからだ。
それもなんとか一年でおさまった。
隣の人は西へ行った。裏の家のおじいさんとおばあさんは年をとって二人で住めなくなって、娘さんのところに行ってしまった。
西の窓から見える家の灯りはなくなった。

私も色々考えた。考えれば考えるほどめんどうくさくなって、「やっぱりここがいい」ってここにいる。

あのころもらったメールを読んだ。
ちょっと違って見えるかとおもった。すこし変わって見えたような気もする。でもあまり届いて来ない。どこかのんきな気分でそれを眺めてる。
ずいぶんあとで、先月、20年前に先輩が書いた松竹梅通信を読んだ。当時から玄米菜食、反原発のことを書いていた。大学生が就職先を選択するのに問題意識が低いと書いてあった。それでものんきに私はスーツを着て,革の靴を履き、革のカバンをもって、中に日経新聞を入れて就職活動をした。なんのコンセプトもなくいろんな業種の色んな会社を受けた。「働く」ってことも「仕事をする」っていうことが社会のなかでどんな役割をもっていくのか、ってことがあまり、というよりちっともよくわかってなかった。あの松竹梅通信を読んだ大学生の私はその素養がなかったからあたまにちっとも入って来なかったのだろうか。読んだはずなのに。これは私に言われていることなのに。それはよそ事だった。

いまもメールをもらう。再考して欲しいと。
でもまだここにいる。

今日も天気が良い。
昨日の風はおさまった。空は今日もあの日のように青くてのっぺらぼうだ。



オムレツを作った。やけに黄色が濃いオムレツ。いつもこのたまごで作るとパンケーキもなにもかも真ッ黄色になる。
卵は庭で拾った。昨年5月に産まれたメイがうんだもの。
産まれた時はこんなに小さかったのにもうすっかりふてぶてしい胸を突き出してあるくしっかりしたメンドリになった。

小屋のなかで産んでほしいからこのところ午前中いっぱいは小屋に閉じ込めている。
でもそれでもウオサオして外に出たがり、よく養鶏場で聞く様ななんとも切ない鳴き声を聞くと、もう外にだしてやりたくなる。それは私が卵が欲しいから、ではなくて、知らないところに卵をたくさん産み、それを温め出してしまうと夜、小屋にもどってこなくなるから閉じ込めて、小屋の巣箱の中で産んでほしいと思っている。
いままで一度メイは外泊したことがあって、そのとき私は宮古島の浜にいたのだけれど、隣のひとからみつからない、って心配そうに電話が何度もかかって来たのだ。その日は宮古島は20度くらいある年末だったし、西の方だからまだ明るい夕方だったのだけれど、ここはもう氷点下でしかも暗い中を、動物に食べられては、、、と必死にさがしてくれたのだ。そして夜、犬のポチがみつけてみれて、バタバタいうメイを袋をかぶせて大人しくさせ、小屋にもどしてくれた。
とっても大事に思ってくれているのだ。そのチャボを外泊させるわけにはいかない。
クロが戻って来なくなった時もやはり家族で東京の同窓会にでているときで、それは2泊どこにいるかわからなかったのだけれど、小屋のすぐわきの薪小屋の下から朝、飛び出て来て餌をたべるのでわかった。
いつだって、そうやって滅多にない問題が私のいない家でおこるものだから、それで卵をちゃんとわかるところで産んでほしいのだ。

昨日もそうやって私は午前中がまんしたのだけれど、やはりなんともいえない動き方と鳴き方をするので出してやった。
そしたらトイレに駆け込む人みたいに猛ダッシュしてメイが行った先はここ。
笹のなかに潜り込んだ。
キキもそとで待っている。それでしばらくして立ち去ったあとに茂みをみたら5つの卵があった。

また明日もここで産んで欲しいので2つ残して3つもらった。

やっぱり黄身の濃いたまごだった。おひさまみたいに黄色い明るい満月のような黄色い黄身。


朝、見たら残りの2個の卵はもうなくなっていた。昨日卵をくわえて飛ぶカラスを隣の人が見たと言うからカラスかもしれないし、暖かくなったのでハクビシンかもしれないし、アオダイショウかもしれない。みんなで分けて食べよう。


軽トラにと青い濃い色の軽のボックスに乗っている岸谷さんと並んで走ってる。ある場所の道の脇に停車して青いボックスに乗り込み、そこで私は岸谷さんと豆乳の話をしている。
たぶん、食事の話をして、この前の岸谷さんのブログの高野豆腐のカツレツの話などの流れで豆乳の話になった。そんなもの食べてるの、とかそんな話。
そういう人たちって牛乳じゃなくて豆乳を飲むんでしょ?
なんて話をされたのだと思う。
豆乳って作るときは大豆を15分くらいしか茹でなくてそれを潰して液を取り出すから、半分生みたいなもので、そのまま飲むってなると、飲み過ぎたりする人はお腹が張るんだよ、なんて私が説明してる。
メーカーによって加熱時間が違うとおもうけれど、なんて必死に伝えようとしてる。
そのまま車に乗せてもらって家に戻った。
あれ、軽トラ置いて来ちゃったよ。たしか出てくるとき、後ろに停車したはずの軽トラ見なかったから、どこかにレッカーされてしまったのかも。。。。忘れてきてしまったことにも困って、
起きてもまだどうしよう、困ったという気持ちが続いていて、
しばらくそう思って、あ、夢だったのか、取りにいかなくてよかった。
と急に他人事みたいにホッとしたのもなんだか無責任なような気がして起きた。

娘がプリプリにハマっているから、とうとう私の夢にまで岸谷香さんがでてきて、友達の母さんみたいに普通に会話してた。
でもきっと彼女は外車で、軽の濃い青のボックスには乗ってないとおもう。ずいぶんと泥で汚れていた作業車みたいだった。


朝、豆乳ヨーグルトを作るときに豆乳のパックをみて思い出した。私はさっきだれかに豆乳はそのまま飲んだら良くないよ、って必死に話をしたのに朝だから誰と話をしたわけはない。それで昨日か?と思ったけれど昨日も誰とも話をしていない。
で奥居さんに車の中で話をしたことを思い出した。

今日はやけに風が砂埃をもって飛んでいる。
手にひさしぶりにじんましん。
かゆい。
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