たしか3年前の今くらいが卒園式だった。幼稚園の認可のない小さなNPO法人の保育機関に在籍していた。国からも県からも補助金が、私の入る前までは団体に一万円、それは個人にではなく、しかも年間の金額が県から出ていたけれどそれもなくなっていた。まるでなかったので、先生の給料は安いし、保育時間は短いし、保育料は高いし、手伝いも多かった。けれどとても意味のある大げさにいわなくても人生を変えた楽しい2年間だった。未就児クラス時代もいれると4年お世話になった。
その次の日、引っ越しをしてきた。洗面所がなかったのが不便で洗面所のある所に住みたくて引っ越してきた。
そのアパートには7年間住んだ。狭かったけれど景色だけは南に開けていて、広い視界のある本当に良いアパートだった。敷地は傾斜地にあって、昭和40年代のぐさぐさ崩れる大谷石の2メートルくらい護岸してある上に立っていたから大きな地震があったら、このまま下に滑るだろうと思っていたけれど、2年前の震災のあともそこにあるそうだから、案外丈夫なのかもしれない。
荷物を片付ける時は近所の人とか、娘の赤ちゃん時代からの友人、建てることにはいたらなかった住宅屋さんまで手伝いに来てくれて忙しかったけれどとても楽しかった。
車で移動した主人とは別に娘と二人快速に乗った。窓から外の景色を見たのを覚えている。べつに寂しいとか不安とかちっともなくて、ただ、どこかに出かけるような心持ちだった。
ぴったり2時間で新しい先の駅についた。
ついたら迎えに来てくれるはずの主人は電話会社の人を待つために駅までこれないというので、引っ越し先で隣の家の人に電話をして駅まで迎えにきてもらった。
恐縮しながらも、なんだか古くからの知り合いのような気持ちで当たり前のように電話して、迎えにきてもらった。スーパーなど説明してもらいながら家に送ってもらった。
それから引っ越し屋さんの2トントラックと3トントラック二台のトラックがついて荷物を出した。
3トントラックの方は配車の都合で三トンだっただけで、ガラガラだった。
家が建つまでの仮住まいはとても広く、部屋も多かった。その家もやはり古くからの知り合いかのように一度だけ引っ越し前に会った人に仮住まいを探していた11月に道であって、空き家を知っているといって案内してもらったのだった。
その前には同じ学校にあがる同い年の子どもがいて、そのお母さんが管理をしている人に電話をすぐしてくれ、鍵をもらってそのまま中を見せてもらった。
そしてその家に半年仮住まいをすることになった。
お兄ちゃんがいるので、小学校のことがなにからなにまでその仮住まいのお隣になったお母さんにお世話になった。たとえば体操着の名札など着ける場所がわからず、そんな小さいことからなんでも相談に行った。
とても心強かった。同じ一年生にあがる保育園の卒園式のあとの会食にさそってもらい、一年生になるみんなやお母さんとはじめて会えた。用意されたお店は海のそばで、青い空はとてもきれいで、澄んでいて明るい人ばかりで、なんだかこの先がずっと明るい気持ちだった。不安におもったことなんて一度もなかった。
そんな風にここに当たり前のように越して来た。
それから一年。ちょうど明日でここに越して来て一年という日に地震が起きた。
保育園に納品するための積み木を磨く仕事をもらっていて、ひたすら手を動かしていた。
そうか、今日だ。二年前の今日だった。
やけに空がピンと青すぎるとおもって娘を学校の途中まで送った帰りに家の写真を撮ったんだ。
それから午後に地震が来たんだ。
うちで倒れたものはまな板だけだった。
でも他の家とか海の方はとっても揺れたって言ってた。
新しい家は丈夫なんだな、って心強かった。
たぶん、この家にいたら大丈夫だって心強かった。
すぐに学校に迎えにいった。自転車で行った。都会に住んでいたので大きな地震が来たら車は使っては行けないと思い込んでいた。校庭に並んだ子どもを引き取った。途中で記念にと写真をとった。防災無線は必死に大きな声でなにかを伝えようとしていた。
そんな日だった。
それからたくさんの情報が入れば入るほど不安ばかりだった。
その大丈夫だって思った感覚がどうやら違うかもしれないと不安だった。
でも案外堂々としていた風だった。
受け入れるってのも運命だし、って思った。それはものを知らなかったからかもしれないし、いまもわかってないからかもしれない。
よく知っている人から西ににげろ、とメールももらった。
そのメールを読んでもピンとこなかった。
それから一年はじんましんやひどいあせもに悩まされた。胸腺をやられてしまっていたからだ。
それもなんとか一年でおさまった。
隣の人は西へ行った。裏の家のおじいさんとおばあさんは年をとって二人で住めなくなって、娘さんのところに行ってしまった。
西の窓から見える家の灯りはなくなった。
私も色々考えた。考えれば考えるほどめんどうくさくなって、「やっぱりここがいい」ってここにいる。
あのころもらったメールを読んだ。
ちょっと違って見えるかとおもった。すこし変わって見えたような気もする。でもあまり届いて来ない。どこかのんきな気分でそれを眺めてる。
ずいぶんあとで、先月、20年前に先輩が書いた松竹梅通信を読んだ。当時から玄米菜食、反原発のことを書いていた。大学生が就職先を選択するのに問題意識が低いと書いてあった。それでものんきに私はスーツを着て,革の靴を履き、革のカバンをもって、中に日経新聞を入れて就職活動をした。なんのコンセプトもなくいろんな業種の色んな会社を受けた。「働く」ってことも「仕事をする」っていうことが社会のなかでどんな役割をもっていくのか、ってことがあまり、というよりちっともよくわかってなかった。あの松竹梅通信を読んだ大学生の私はその素養がなかったからあたまにちっとも入って来なかったのだろうか。読んだはずなのに。これは私に言われていることなのに。それはよそ事だった。
いまもメールをもらう。再考して欲しいと。
でもまだここにいる。
今日も天気が良い。
昨日の風はおさまった。空は今日もあの日のように青くてのっぺらぼうだ。
その次の日、引っ越しをしてきた。洗面所がなかったのが不便で洗面所のある所に住みたくて引っ越してきた。
そのアパートには7年間住んだ。狭かったけれど景色だけは南に開けていて、広い視界のある本当に良いアパートだった。敷地は傾斜地にあって、昭和40年代のぐさぐさ崩れる大谷石の2メートルくらい護岸してある上に立っていたから大きな地震があったら、このまま下に滑るだろうと思っていたけれど、2年前の震災のあともそこにあるそうだから、案外丈夫なのかもしれない。
荷物を片付ける時は近所の人とか、娘の赤ちゃん時代からの友人、建てることにはいたらなかった住宅屋さんまで手伝いに来てくれて忙しかったけれどとても楽しかった。
車で移動した主人とは別に娘と二人快速に乗った。窓から外の景色を見たのを覚えている。べつに寂しいとか不安とかちっともなくて、ただ、どこかに出かけるような心持ちだった。
ぴったり2時間で新しい先の駅についた。
ついたら迎えに来てくれるはずの主人は電話会社の人を待つために駅までこれないというので、引っ越し先で隣の家の人に電話をして駅まで迎えにきてもらった。
恐縮しながらも、なんだか古くからの知り合いのような気持ちで当たり前のように電話して、迎えにきてもらった。スーパーなど説明してもらいながら家に送ってもらった。
それから引っ越し屋さんの2トントラックと3トントラック二台のトラックがついて荷物を出した。
3トントラックの方は配車の都合で三トンだっただけで、ガラガラだった。
家が建つまでの仮住まいはとても広く、部屋も多かった。その家もやはり古くからの知り合いかのように一度だけ引っ越し前に会った人に仮住まいを探していた11月に道であって、空き家を知っているといって案内してもらったのだった。
その前には同じ学校にあがる同い年の子どもがいて、そのお母さんが管理をしている人に電話をすぐしてくれ、鍵をもらってそのまま中を見せてもらった。
そしてその家に半年仮住まいをすることになった。
お兄ちゃんがいるので、小学校のことがなにからなにまでその仮住まいのお隣になったお母さんにお世話になった。たとえば体操着の名札など着ける場所がわからず、そんな小さいことからなんでも相談に行った。
とても心強かった。同じ一年生にあがる保育園の卒園式のあとの会食にさそってもらい、一年生になるみんなやお母さんとはじめて会えた。用意されたお店は海のそばで、青い空はとてもきれいで、澄んでいて明るい人ばかりで、なんだかこの先がずっと明るい気持ちだった。不安におもったことなんて一度もなかった。
そんな風にここに当たり前のように越して来た。
それから一年。ちょうど明日でここに越して来て一年という日に地震が起きた。
保育園に納品するための積み木を磨く仕事をもらっていて、ひたすら手を動かしていた。
そうか、今日だ。二年前の今日だった。
やけに空がピンと青すぎるとおもって娘を学校の途中まで送った帰りに家の写真を撮ったんだ。
それから午後に地震が来たんだ。
うちで倒れたものはまな板だけだった。
でも他の家とか海の方はとっても揺れたって言ってた。
新しい家は丈夫なんだな、って心強かった。
たぶん、この家にいたら大丈夫だって心強かった。
すぐに学校に迎えにいった。自転車で行った。都会に住んでいたので大きな地震が来たら車は使っては行けないと思い込んでいた。校庭に並んだ子どもを引き取った。途中で記念にと写真をとった。防災無線は必死に大きな声でなにかを伝えようとしていた。
そんな日だった。
それからたくさんの情報が入れば入るほど不安ばかりだった。
その大丈夫だって思った感覚がどうやら違うかもしれないと不安だった。
でも案外堂々としていた風だった。
受け入れるってのも運命だし、って思った。それはものを知らなかったからかもしれないし、いまもわかってないからかもしれない。
よく知っている人から西ににげろ、とメールももらった。
そのメールを読んでもピンとこなかった。
それから一年はじんましんやひどいあせもに悩まされた。胸腺をやられてしまっていたからだ。
それもなんとか一年でおさまった。
隣の人は西へ行った。裏の家のおじいさんとおばあさんは年をとって二人で住めなくなって、娘さんのところに行ってしまった。
西の窓から見える家の灯りはなくなった。
私も色々考えた。考えれば考えるほどめんどうくさくなって、「やっぱりここがいい」ってここにいる。
あのころもらったメールを読んだ。
ちょっと違って見えるかとおもった。すこし変わって見えたような気もする。でもあまり届いて来ない。どこかのんきな気分でそれを眺めてる。
ずいぶんあとで、先月、20年前に先輩が書いた松竹梅通信を読んだ。当時から玄米菜食、反原発のことを書いていた。大学生が就職先を選択するのに問題意識が低いと書いてあった。それでものんきに私はスーツを着て,革の靴を履き、革のカバンをもって、中に日経新聞を入れて就職活動をした。なんのコンセプトもなくいろんな業種の色んな会社を受けた。「働く」ってことも「仕事をする」っていうことが社会のなかでどんな役割をもっていくのか、ってことがあまり、というよりちっともよくわかってなかった。あの松竹梅通信を読んだ大学生の私はその素養がなかったからあたまにちっとも入って来なかったのだろうか。読んだはずなのに。これは私に言われていることなのに。それはよそ事だった。
いまもメールをもらう。再考して欲しいと。
でもまだここにいる。
今日も天気が良い。
昨日の風はおさまった。空は今日もあの日のように青くてのっぺらぼうだ。
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2009年の12月のもう消えてしまったブログの記事から 風邪のはなし
月曜日に幼稚園の勉強会で中(国)医学でアントロポゾフィー医学にも詳しい漢方医の方のお話会がありました。
風邪の予防法、鑑別法、経過のさせ方の話でした。
そのなかで「咳」についてお話がありました。
咳の原因は「目の疲れ」か「胃のつかれ」か「腕のつかれ」という話がありました。
咳のときにも「足湯」をすると効果があるそうです。
足湯の仕方は野口整体でも他でもよく書かれていますが、おおよそこんな感じです。
首より上の風邪のとき
くるぶしより上までお湯に
胃腸系の風邪のとき
ひざこぞうの上までお湯に
足を39度のお湯にまず入れて、しだいに44度までのお湯にしながらトータルで10分間。
上服はしっかりと着て暖かくして行います。
乾いたタオルでよく拭いてすぐに寝ます。
風邪は左右の温度差が原因です。
風邪の時に足湯をすると片方だけが先に赤くなるはずです。
赤くならないほうの足を赤くなるまで足湯します。
さーっと風邪が抜けます。
娘は風邪のときは自分から足湯だけして寝ると宣言し
足湯をして寝て夜のうちに熱をだしておわることもあります。
大人でももちろん同じです。
風邪の初期症状は鼻水、咳ではなく、どちらかのほっぺただけほの赤くなることからはじまります。
なのでたいていの人は「風邪を引いた」時から風邪だと気がつくまでに3、4日経っていることになります。
このときに足湯して左右の温度差をなくしてやるとすんなり風邪が経過します。不要にこじらせることがないのです。
肝臓の風邪というのもあるそうです。これは目が赤くなったり、目やにがでる症状の風邪です。
目の使いすぎ、ストレスがあるなどのときにひくそうです。
そうしたときは肝臓を修復させるために10時前に就寝。
10時以降のテレビ、パソコン、飲酒は厳禁です。
腕を使うと咳が止まらないというお話も。
これにはびっくりしましたが、肺の経絡が通っていることを思い出し、納得しました。
どんな風邪にしろ胃腸に負担をかけないことが回復につながるそうです。
食べ物はお粥に梅干です。
ご飯では胃の負担が大きいので外でコトコトと胃の作業をてつだってやるお粥がよいそうです。
中医学では熱性の風邪、寒性の風邪と分けてかんがえるそうですが、どちらにせよ消化しきれないタンパク質が炎症をおこすので、ご飯ならばお粥にする、炎症を悪化させる熱性の食べ物(マクロ理論とはちょっと別)のうなぎ、山椒、牛肉、鮭、もち米は食べないように心がけるとよいとのこと。 風邪対策に良いものは美肌にも良いそうです。
予防に大豆製品、しろきくらげ、手羽先、はと麦がおすすめだとか。
納豆小僧はインフルエンザにかからないという話の例がでました。
今日は羊毛でフェルトのシューズをつくりました。明日は園の仕事でフェルトをつくります、。
羊毛づいています
月曜日に幼稚園の勉強会で中(国)医学でアントロポゾフィー医学にも詳しい漢方医の方のお話会がありました。
風邪の予防法、鑑別法、経過のさせ方の話でした。
そのなかで「咳」についてお話がありました。
咳の原因は「目の疲れ」か「胃のつかれ」か「腕のつかれ」という話がありました。
咳のときにも「足湯」をすると効果があるそうです。
足湯の仕方は野口整体でも他でもよく書かれていますが、おおよそこんな感じです。
首より上の風邪のとき
くるぶしより上までお湯に
胃腸系の風邪のとき
ひざこぞうの上までお湯に
足を39度のお湯にまず入れて、しだいに44度までのお湯にしながらトータルで10分間。
上服はしっかりと着て暖かくして行います。
乾いたタオルでよく拭いてすぐに寝ます。
風邪は左右の温度差が原因です。
風邪の時に足湯をすると片方だけが先に赤くなるはずです。
赤くならないほうの足を赤くなるまで足湯します。
さーっと風邪が抜けます。
娘は風邪のときは自分から足湯だけして寝ると宣言し
足湯をして寝て夜のうちに熱をだしておわることもあります。
大人でももちろん同じです。
風邪の初期症状は鼻水、咳ではなく、どちらかのほっぺただけほの赤くなることからはじまります。
なのでたいていの人は「風邪を引いた」時から風邪だと気がつくまでに3、4日経っていることになります。
このときに足湯して左右の温度差をなくしてやるとすんなり風邪が経過します。不要にこじらせることがないのです。
肝臓の風邪というのもあるそうです。これは目が赤くなったり、目やにがでる症状の風邪です。
目の使いすぎ、ストレスがあるなどのときにひくそうです。
そうしたときは肝臓を修復させるために10時前に就寝。
10時以降のテレビ、パソコン、飲酒は厳禁です。
腕を使うと咳が止まらないというお話も。
これにはびっくりしましたが、肺の経絡が通っていることを思い出し、納得しました。
どんな風邪にしろ胃腸に負担をかけないことが回復につながるそうです。
食べ物はお粥に梅干です。
ご飯では胃の負担が大きいので外でコトコトと胃の作業をてつだってやるお粥がよいそうです。
中医学では熱性の風邪、寒性の風邪と分けてかんがえるそうですが、どちらにせよ消化しきれないタンパク質が炎症をおこすので、ご飯ならばお粥にする、炎症を悪化させる熱性の食べ物(マクロ理論とはちょっと別)のうなぎ、山椒、牛肉、鮭、もち米は食べないように心がけるとよいとのこと。 風邪対策に良いものは美肌にも良いそうです。
予防に大豆製品、しろきくらげ、手羽先、はと麦がおすすめだとか。
納豆小僧はインフルエンザにかからないという話の例がでました。
今日は羊毛でフェルトのシューズをつくりました。明日は園の仕事でフェルトをつくります、。
羊毛づいています
ニューヨークにもどったこのまえ乾燥肌対策と九星気学について講座をしてくださった先生が私のメールを引用して、ブログに紹介してあった。
→こちら
「ニューヨークでクラフトアート&ヨガを楽しむ」http://artofworld.exblog.jp/18734255/
あれから乾燥していた肌も好調で去年沖縄に行った時よりも良くなってる。ときどきもらったそのときもらったオイルでマッサージをしたり、精製した羊毛の油で手作りしたハンドクリームを塗っている。でも基本的にはいままでのガサガサした灰色したゾウの手ではなくなった。
その先生は私のいままでの手の状態の話を聞くと「たぶん化学物質(調味料)と砂糖の排出だと思う」と言った。
これは一昨年の手 いっつもヒリヒリとして灰色ですぐにあかぎれになってた手。半年はこの状態。

そしてこれはそのあと沖縄に行った時の手
あかぎれはなくなったけれどゴワゴワしていてアトピーの肌

いままでの生活にくらべるとこの8年、ずいぶんと、ほとんど化学物質がない。やっとぬけてきたのかもしれない。
環境も大事だし、食べものの選択も大事だった、、てやっと気がついた8年。
いまは卵も魚も食べるけれどそれでもカップラーメンを毎週のようにたべたり、フルーチェがいつも家にあったり、牛乳を飲むと骨が丈夫になるとか背が高くなるって思って水のように飲んでみたり、営業の昼にはマックだったり、夕食がコンビ二だったり、お昼は一風堂や九十九ラーメンや尾道ラーメンや喜多方ラーメンだったり しないから、やっぱりそれにくらべたら、「なにで作ってあるのか」って食べ物の比率が格段にほぼ100%に近くなったからそれで良くなったのだと思う。
→こちら
「ニューヨークでクラフトアート&ヨガを楽しむ」http://artofworld.exblog.jp/18734255/
あれから乾燥していた肌も好調で去年沖縄に行った時よりも良くなってる。ときどきもらったそのときもらったオイルでマッサージをしたり、精製した羊毛の油で手作りしたハンドクリームを塗っている。でも基本的にはいままでのガサガサした灰色したゾウの手ではなくなった。
その先生は私のいままでの手の状態の話を聞くと「たぶん化学物質(調味料)と砂糖の排出だと思う」と言った。
これは一昨年の手 いっつもヒリヒリとして灰色ですぐにあかぎれになってた手。半年はこの状態。
そしてこれはそのあと沖縄に行った時の手
あかぎれはなくなったけれどゴワゴワしていてアトピーの肌
いままでの生活にくらべるとこの8年、ずいぶんと、ほとんど化学物質がない。やっとぬけてきたのかもしれない。
環境も大事だし、食べものの選択も大事だった、、てやっと気がついた8年。
いまは卵も魚も食べるけれどそれでもカップラーメンを毎週のようにたべたり、フルーチェがいつも家にあったり、牛乳を飲むと骨が丈夫になるとか背が高くなるって思って水のように飲んでみたり、営業の昼にはマックだったり、夕食がコンビ二だったり、お昼は一風堂や九十九ラーメンや尾道ラーメンや喜多方ラーメンだったり しないから、やっぱりそれにくらべたら、「なにで作ってあるのか」って食べ物の比率が格段にほぼ100%に近くなったからそれで良くなったのだと思う。
キーボードがもったりしてとても重たい。一度も掃除をしたことがなかったので外して一つ一つ拭いて556をさして戻した。
相変わらずなんだかもっさりとしたタッチで思うように指まで伝わった気持ちが表示されなくてストレスがあるけれど、ホコリ、木屑の取れた白いキーボードはなんとも気持ちがいい。
変換が遅いのはもう、これはiMacの限界で、
「水星の逆行」している期間にやけにそれを感じる。
もうちょっと続くからそれまでは振り返ったり、内省したり、ちょうどよい。
窓の外は春の風。もったりと体にまとわりつく春の風。遠くに子どもたちのいるテントが見える。
なかに布団をたくさん持ち込んで、まくらまで持って行って、おやつもって、DSもって、飛び出せ動物の森をしているはず。
分刻みの平日とちがって、ゆっくりしてくれ。
オムレツを作った。やけに黄色が濃いオムレツ。いつもこのたまごで作るとパンケーキもなにもかも真ッ黄色になる。
卵は庭で拾った。昨年5月に産まれたメイがうんだもの。
産まれた時はこんなに小さかったのにもうすっかりふてぶてしい胸を突き出してあるくしっかりしたメンドリになった。
小屋のなかで産んでほしいからこのところ午前中いっぱいは小屋に閉じ込めている。
でもそれでもウオサオして外に出たがり、よく養鶏場で聞く様ななんとも切ない鳴き声を聞くと、もう外にだしてやりたくなる。それは私が卵が欲しいから、ではなくて、知らないところに卵をたくさん産み、それを温め出してしまうと夜、小屋にもどってこなくなるから閉じ込めて、小屋の巣箱の中で産んでほしいと思っている。
いままで一度メイは外泊したことがあって、そのとき私は宮古島の浜にいたのだけれど、隣のひとからみつからない、って心配そうに電話が何度もかかって来たのだ。その日は宮古島は20度くらいある年末だったし、西の方だからまだ明るい夕方だったのだけれど、ここはもう氷点下でしかも暗い中を、動物に食べられては、、、と必死にさがしてくれたのだ。そして夜、犬のポチがみつけてみれて、バタバタいうメイを袋をかぶせて大人しくさせ、小屋にもどしてくれた。
とっても大事に思ってくれているのだ。そのチャボを外泊させるわけにはいかない。
クロが戻って来なくなった時もやはり家族で東京の同窓会にでているときで、それは2泊どこにいるかわからなかったのだけれど、小屋のすぐわきの薪小屋の下から朝、飛び出て来て餌をたべるのでわかった。
いつだって、そうやって滅多にない問題が私のいない家でおこるものだから、それで卵をちゃんとわかるところで産んでほしいのだ。
昨日もそうやって私は午前中がまんしたのだけれど、やはりなんともいえない動き方と鳴き方をするので出してやった。
そしたらトイレに駆け込む人みたいに猛ダッシュしてメイが行った先はここ。
キキもそとで待っている。それでしばらくして立ち去ったあとに茂みをみたら5つの卵があった。
また明日もここで産んで欲しいので2つ残して3つもらった。
やっぱり黄身の濃いたまごだった。おひさまみたいに黄色い明るい満月のような黄色い黄身。
朝、見たら残りの2個の卵はもうなくなっていた。昨日卵をくわえて飛ぶカラスを隣の人が見たと言うからカラスかもしれないし、暖かくなったのでハクビシンかもしれないし、アオダイショウかもしれない。みんなで分けて食べよう。
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