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もうなにをしてもいやになった。フロントの女の子の顔をみても、おばさんの顔をみても、営業の上司をみても帳票をみてもなにもかもいやになった。自分の中途半端が共鳴して、そういう人たちの中途半端さが許せなかった。
毎日気がくるったみたいで、そこにはどこをさがしてもどんなことをしても自分の居場所がなかった。
「居場所」それが見つからないのではなくて、そのころ、ないことにやっと気がついた。
外勤の仕事はむいていなかった。はじめからむいていなかったけれど、外勤の人がいなくなって、内勤から外勤になった。
三年経っていた。そのわりに進歩がなかった。
なにをどうしたらどうなる、という今までの達成感があったものがそこには見つけられなかった。
何をしてもどこに行ってもいつも根気比べをしているみたいで、ただ、スケジュール帳の空白を埋めるためにアポをとり、出かけ、重たいカタログとサンプルをカバンにつめて電車にのった。たくさん電車に乗って遠くまで行けることは楽しかった。新幹線に乗って日帰りで出張するのも、やっぱり泊まろうと出張先の長岡駅のメッツに宿をとったりするのは楽しかった。
でも会社の都合をお店の人に気持ちよく理解してもらえるためにと、たくさん嘘をついた。私は船は沈めなかったけれど。

目的はなかった。会社の目的はあったけれどそれは私の目的ではなかった。それにその時はまったく気がついてなかった。「働く」ってことは当たり前だったけれど、なんで働いているのかはちっともわからなかった。
嫌なことがあるとなんどもこの人たちが消えてなくなればいいと思った。自分が消えることは考えてなかった。

それでもやっぱり智恵子抄の智恵子みたいな気持ちがしていた。空をみてもここは私のいる場所の空じゃないな、って思った。よくわかる、って思った。この先ゴリゴリとここにいてもくるうだけだとおもった。逃げ道はそこにしかなかった。
やめることにした。いつやめようか、今度はそればかり考えていた。

得意先からの帰りだった。新百合ケ丘だったかあざみ野だったか、大きなロータリーのあるちゃんと車社会を意識して作られた、そんなシャレた住宅街の駅でバスを降りた。駅前の文房具屋さんにはいり、その店で和紙のような手触りのきれいな白い便せんを買った。

そしてその便せんをカバンに入れて歩くと、なんだかすこし変われた気がした。そしていつものように営業所に戻ったのだったと思う。

家でその便せんに辞表を書いた。今のようにネットがないから、文章は結婚するときに相手が買った社交辞令集のようなものが家にあって、それを見て書いた。万年筆をつかって縦書きに書いた。
書いてからしばらく、長い気がするけれどたぶん1日か2日カバンに入れていた。いつだったか、営業所の係長にそれを渡した。どこでいつ渡したのか思い出せないけれど、そのあと本社の部長が係長に辞表をもらったことを聞いて、渡してくれてたんだって思った。

それから引き継ぎをして、人事異動があって、消化の休みをとって3月末で退職した。最後は高熱がでて、喉を痛めて、挨拶をしたかったのだけれど、まったく声がでなくなった。年度末によくこの風邪をひくのだけれど、かんじんな時にまったく声がでなかった。病院で薬をもらうと喉の痛みがなくなった、と思ったら今度は声を出すと喉がかゆくて、咳が止まらず、やはり話ができなかった。
本社の別部署の課長が「いいやつからいなくなる」と最後の本社出張のとき居酒屋の帰り道、公園の脇の道のところで泣いていた。そのあと「峠」という詩を書いたものを手紙にもらった。なにかあったらいつでもメールをよこすんだぞ、とアドレスも書いてあった。その手紙はいまも大事にしている。けれど、ひょっとしたら返事をまだ書いてないかもしれない。

そうして10年がたった。フェイスブックで本社の先輩からメッセージがきた。住所も電話もメールアドレスもわからない、一生関わることのないとおもった人と連絡が取れる。
10年ひとむかし。
営業時代は「つかまらないから困る」と得意先に持てくれと言われた携帯はつかまるのがいやで持たなかった。でも今私はiPhoneが手放せなくなっている。
10年ひとむかし。

始めることより終ることの方がとても大変で、力のいることなんだと、とわかった何度目かのむかしのできごと。

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三年前に引っ越して来た場所は駅から4キロほど離れている。
家には一台しか車がなかったので昼間主人が駅の駐車場まで車をもっていくと、私の足は自転車と歩きとだった。
4月に軽トラを買うまでの一ヶ月は市内循環バスを使って警察署にいったり、役場に行ったりしていた。バスは一日外回りと内回りであわせても8本くらいと少ない。借りていた家からバス停までは12分くらいあった。

免許の書き換えに必要な警察署は隣の隣の駅でバスに乗ればその駅から5分ほどあるいた場所にある。幼稚園のときにもそれまで歩くのは得意な子どもだったのと留守番のできないサイズの娘は常に同行した。春休みはそうして過ごした。

私たちは歩くのは得意だが、苦手なものがある。それは「匂い」だ。
新しいバスの匂いに参ってしまい、私は我慢できるが、娘はもう乗りたくないと言う。
そうすると帰る手段が電車と徒歩ということになる。電車は一時間に一本。駅からバスもあるが、接続はしていないことのほうが多かった。

電車は行ったばかりでそのあたりをフラフラして1時間後の電車に乗った。駅についてももちろんバスはなく、歩くことにした。近所の人が一時間くらい、と言っていた。
早足であるいたつもりだったけれど一時間と20分かかって家についた。

あるとき、用事があって駅を降りた。どんな用事だったかわすれたけれど、もしかしたら、人が恋しくて寄っただけだったのもかもしれないけれど、駅を降りてその駅から5分くらいあるいたところにある地域のお店に寄った。

そこの社長はここらへんの移住者の促進事業の理事で引っ越す前から知っていた顔だった。子ども会の案内を持って来てくれたお母さんがそこに勤めていてこのあたりで数少ない地元の人で知っている顔だった。

店に入るとお茶菓子とお茶をすすめてくれて、学校の体操着のお店に案内してもらうことになった。娘にはポカリスエットの青くて白い細長い缶ジュースをくれた。いままでそんなものを飲ませたことがなかったので、ちょっとどうしようか、と思ったけれど娘も見たことがなかったので飲まずにいたら、お土産にくれた。
しばらく、それは一年以上棚にしまってあって、いつもその時にしてもらったいろいろなことを思い出してはありがたい気持ちで眺めていたのだけれど、いつだか娘が高熱を出したときに、あっさりとした気持ちで彼女にそれを飲ませた。
そのあと車でお店まで送ってくれて、ここに越して来たから、世話をして欲しいとお店の人に紹介までしてくれ、そして歩いて帰ろうと思った家まで送ってもらった。

何から何までわからなかったけれどわからないことは色んな人が色んなことを流れ良く教えてくれた。だからそのあともきっと大きな顔をしてふんわりとここに当たり前のような気持ちで住んでいる。地の人からみたら、きっといつまで経っても、私の顔にどんなにシワができても、腰がまがっても永遠に私は「引っ越して来た人」なのだろうけれども、私の目にはひと月も経たないうちにもうすっかりこの土地が親しいものになっていた。

そんな三年前の春。

来年用の子ども会の名簿をセブンイレブンのプリンターで出力していたらそんな気持ちがわいて来て、ぬるくてホコリまみれの信号待ちの軽トラをゆさぶって倒しそうなこのあたりの春の名物とかいう春の東風がそんな心に積もっていたたくさんの気持ちを底から舞い上がらせた。

印刷したらそれで帰ろうと思ったけれど、軽トラの行き先はそのお店に変更になった。
お店に入るとそのお母さんがどうしたの?って顔をして見てくれたのだけれど、お礼を言いたいのに、もうお腹のなかから、喉のあたりから先にもう気持ちがあふれだして、声にならなかった。そんなにしていたら、またあのときみたいに「どうぞ」ってお茶をすすめてくれた。

お茶をすすって、ちょっとは落ち着いて、お礼と、来年の学校の係のことを聞いて、もっと少し落ち着いたので「またお世話になります」といって帰って来た。
帰り道も胸から喉のあたりにだんごみたいに気持ちが一杯になったままで強い風の中をはしった。

帰ると鶏小屋じゃ倒れてないでそこにあって、卵が朝より一つ増えて3つになっていたので2つもらった。

ほっとしたら、朝は玄米ご飯をたしか2膳食べたのにお腹がすいた。





九星氣学の氣の字は気じゃなくて氣を使うことが多い。

もともとの氣は中がお米だけれど新しい気はバッテン。
だから氣が良いのだっていう人もいる。
だから氣をつかってみる。
そういう人がいるのだからこれで私も書いてみる。何か印象が違う?

九星氣学が良くわかるように、もっと良く見えるようになる練習にって、先生に50人切りをすると見えるようになるって言われていろんな人の星を読んでる。
いまのところ了解を得て読んだ人は6人くらいかな。
その流れに乗っている人と、乗っているのがわからない人と、まったく違う人といる。
つい、当てよう、と思ったり
当たった、当たってない ってなったりする。けれど

星よみだから、当たる当たってないってことではなくて
その流れがあるから上手く乗ろうね、って事なんだって思って来た。

ビーチボードだったっけ?つまり巨大ビート板で波乗りの雰囲気を二、三回だけ体験したことがある。あるとき、どういうタイミング(日本語だとタイミングって好機だって、これはタイミングの方がわかりやすそう)なのだか、わからないのだけれどうまく波にあるときは乗れて、波打ち際までぶお〜んと体をもっていかれることがある。
これが何度もしていくうちに体でその感覚がつかめたり、または波の読める人にアドバイスもらったり、もしくはタイミングよく押し出してもらうことできっとわかっていくように、

そんな感じ。
星読みって言うのは
つまりこういう流れがあるのだから、こうやって星まわりのエネルギーに上手く乗ると
とっても目指す、進むはずの先に気持ちよく進んでいけることなんだって思う
星座占いもそうやって使うのが良いと思う

だからこれからはできるだけ言葉の使い方を練習して、
星を読んだ相手が
その波に乗っていることがわかる、
もしくは乗れてなかったら波乗りの先生みたいに乗り方のコツ、タイミングを助言かできるようにしてぽんと背中を押せるような

そんな星読みができるといいと思った如月朔日の朝。


9才と言うものはこのくらいのものなのだろうか。
注意をしたいのに、言えば言うほど二人の意思は乖離していってまったく共通点を見いだすことができない。
私は必死に伝えようとすればする。それをするほど彼女は私の伝えようとすることではないことにいらだち、その言い方はやめて欲しい、言葉を変えて欲しいと訴える。
私はそれは言いたいことの主題ではなく、しかしそれはその事実を形容する言葉としては不適格なのでそういう言い方はしたくない。
それで必死に言葉をかえ、声色を変え、伝えようとするのにまったく伝わらない。
まるで夢のなかで必死に走っているのに走れないようなもどかしさだ。

防備として

彼女の苦手な言葉
いっつも
ほとんど
ぜんぜん
毎回
ちっとも

こう言い換えを要求された
少し
ときどき
たまに

でもそれは違うだろ、と今度は私がそれを飲み込めない
よくある問答
「良く洗って」
も伝わらない。
「しっかり洗って」
に変えても同じ
「三分洗って」
など数字を盛り込むと少しは長くなる

興奮して眠れない
ヨギティーを飲む
カルダモン、クローブ、フェンネル、ジンジャー、などなどスパイスが効いておいしい。
おちつけ、私。


朝は自宅学習とおもってテキストと言われた本を読んでいた。
日差しの入る温かな二階のすのこ状の通路で窓の桟に背中をもたらせて本を読んだ。
すのこ状になった木は叩くとちょっとインドネシアの楽器のようなポコ、ポコという音を立てるものだらからその音が楽しくて叩きながら読んだ。
場所によって音程に差があるものだからなんだかそれだけでインドネシアのどこか島に来ているような気持ちになる。叩きながら読んだ。
本を一通り、なぜか後ろから読み出して前の方にもどっていった。せっかくこんなに暖かいのだからここに娘の布団を干そう、ふかふかにしよう、と敷いてその上で読んだ。そしたら案の定、眠くなって横になっていた。気がつかないうちに寝ていたが、寝ている間は起きていると思っていた。
寝ていたことに気がついたのは電話がなったからだ。

あわてて階段をおり、電話をとった。
だれだろう?名前も名乗るのをわすれて「もしもし」と言うとしばらく声がなかったけれど
それはなんと名乗って良いのか困っていたからだと名前を聞いてからすぐにわかった。
こっちに引っ越してくる前に建築屋さんが案内してくれた同じ設計さんで建てた家の人だった。
こちらは別荘ということになっているのだけれど、去年あたりから別荘で過ごす時間の方が増えて、ほとんどこっちにいる。それで畑をして、ふたりで仲良く暮らしている。年齢は自分の親と戦争をはさんで産まれた兄弟くらいだから10こちょっと若いと思う。親でもないし、兄弟でもない年齢。
引っ越してからもそれがきっかけでときどき遊びにふらり、と寄ったりする。
そしておいしいお茶と楽しい話しをたくさん、たくさんしていつも幸せな二人のあたたかい空気をもらってもどってくるのだ。

電話をわざわざしてくるということはほとんどない。これは様子が違う、とおもったら薪割りをしていて腰をひねってしまったという。以前遊びに行ったとき、ちょうど私はぎっくり腰で、治療院の帰り。その治療院で私が借りて来たという野口整体の本を思い出して電話してきた。その治療院を紹介してほしいと思って電話をかけてきたのだという。
でもそこは震災後、しばらく山田で開業していたけれど、いまは沖縄に引っ越してしまっているので直接見てもらうことはできない。という返事をして電話を切った。

受話器を置いたあと、ようやく起きて来た頭で私は考えた。でもやっぱり半分眠った頭で、私にできることを探してみた。私に課されたものはなんだったのだろう?直接施術することはできない。自分の腰に気をつけなさいというメッセージ?それとも?と考えながらも手は腰痛のときにもらった資料を入れたファイル、お灸や本、カワラケツメイのお茶、レメディーのキット、自家製の醤油、そのときの醤油のもろみ粕などのお土産ともなんともいえないものを寄せ集めてカバンにいれていた。
そして車の中にいた。

電話では「たいしたことはないのだけれど」と症状のことを言っていた。けれど私が家についたときは横になっていた。
私がここ3年の腰痛体験と腰痛対策で知ったこと、取り組んだこと、気がついたことなどを総動員 して話をして、体操などを見せて来た。ほとんどは野口整体を知っている奥さんがご存知で、相づちをうってくれるので話はさらに饒舌になる。というより、この家にくるといつも私はちょっといつもに増してトークのスピードが増し、それにあわせて声のトーンも高くなるのがわかる。
調子に乗ってしまう。体の対策、腰痛になる心の対策について一通り話をし、レメディーを三粒おいてきた。

それからちょっと、って思ってお茶をもらって大笑いしながら話をきいたり、それでもたくさん話をしたら12時の音楽がながれた。あっという間に昼になっていた。お互いの話の勢いはとどまらない。どこで退席しようと台所をみると奥さんがなにやら粉をこね、それを綿棒でのばしている。手打ちうどんを用意してくださり、それを三人でおいしくいただいた。
そのあとも笑いに笑い、話すに話し、聞くにだけ聞いてご飯のあとのお茶を飲んでいて、そろそろ帰ろうとおもい席をたった。

軽トラに乗ってびっくりした。
時計がもう3時半になってる。夕方だ。。

浦島太郎ってこんな感じだったのだろうって思う。
あっという間の一日だった。

そして今は夕方のチャイム。それでもまだ日が高い。
明日は新月。
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